8月3日の事務局会議
今回の事務局会議には、前回に引き続き路上演劇祭JAPANのTさん、さらに実行委員長のほんださんと羽根木プレーパーク世話人のKさん、羽音ロック担当者のAさん、自主ようちえんひろばのHさんも参加してくれました。
次回の実行委員会では「雑居まつりを継続する上での課題」が主なテーマになるということで、それぞれの雑居まつりに対する思いを語ってもらいました。
「雑居まつりを立ち上げた頃は、ボランティアの創成期でもあった。『自分たちで住みよいまち』にするために、社会人が考え、学生が体を動かし、障がい者が役所をまわり、実務を引き受けた。最初の頃は障がいの当事者団体がまちを点検し、障がい者への接し方が行政は遅れているなどいろんな発見があった。障がい者団体が多かったが、プレーパーク、子どもたち、第三世界、平和や暮らしなど、いろんな団体が加わり広く多様になり、サンバカーニバルが始まって町ぐるみで大きくなっていった」
「17の時から裏方として参加してきた。雑居があったから道を踏み外さずに来られた。だから、自分と同じような若者と雑居をつなぐ役割をしてきたように思う。雑居まつりから新しく生まれてくるものを期待していたが、回を重ねていくなかで雑居でできることがほかの場所でもできるようになり、存在意義がうすれていったのではないか。新しく参加し雑居のエネルギーにふれ、新鮮に雑居のテーマを受け止めてくれている人もいるが、少しずつ雑居から離れているようにも感じる」
「聴覚障害者協会も、若い人は減っている。障がい者への『差別』という言葉が減ってきたからか。『見える差別』は減ったが、『見えない差別』は残っている。外出して、電車の棚に荷物を忘れて取りに戻ったが、周りはスマホばかり見ている。声のない自分が困っていることに誰も気づかない」
「2歳の時から羽根木にいて、ここにいることが自然だった。羽音ロックは雑居があるからできる。雑居にかかわってきた人の話も聞き、長い年月があることも感じる。自分たちにできることはやりたいが…」
「プレーパークも世代交代に悩んでいる。子どもたちはこういう場に来るのは苦手。熱量の違いがある。自分自身子どもの頃から雑居やプレーパークで育ってきて親世代になり、やりたいという思いもあるが、雑居のよさをどう伝えるか、何ができるかと言われると、どこまでできるかわからない」
「自主ようちえんひろばも来年50周年。メンバーも減り、存続が危うい。雑居まつりには子どもの頃から客として来ていた。客として来ていた時の驚きと、実行委員として会議に参加した時のみんなの話を聞いての学びがある。自分の子どもにもいろんな子と交流し、車いすの子や障がいを持つ子がいることを知ってほしい。だから雑居まつりを続けてほしい。何ができるのかわからないけど、何かしたい…」
「自分が障がい者だと伝えられないタイプだった。障がい者としてどうすればいいか考えるけど、『こうしたらいい』とはっきりいえない。階段があるときに、『上るのに手を貸してほしい』と言うか、『エレベーターをつけてほしい』と言うか、社会はそのせめぎあいだ。社会が便利に合理的になり、マイノリティも障がい者もまちに出やすくなってきたけど、『市民運動』ってそうではないのではないか」
こんな話をしました。8月24日の実行委員会でも、一人ひとりの雑居に対する思いを聞きたいということになりました。