【宮前武夫さん】
雑居まつりは、1976年にはじまりました。雑居まつりをつくった人たち、立ち上げに関わった人に話を聞きました。(「雑居まつり40年のメッセージ」に収録)
社会教育の場にいきなり飛び込ませられて。
先に沢畑さんが(世V連を、区の)登録団体にしちゃったの。
(沢畑)碓井さんは社会福祉協議会の担当にしたの。
宮前は社会教育担当。俺は青年奉仕協会と。
(沢畑)それは相互にやってて、分担して関わっていくと。
翌年には車いすでも行ける、「でも」が肝心なんですけど。障がい者でも行ける青年学級。当時は、いわゆる知恵遅れの特殊学級を出た人の青年学級もあって。それは青年学級とは言わないで、特殊学級、て言われていたところだったんですよ。ただ私たちがその特殊学級っていうのが嫌で、車いす、または障がいを持っていても行ける、一緒に学べる青年学級を作りたいって言って。
(青年学級や連続講座など行ない)いろんな活動が広がってきた。社会教育の中でも区の中でも広がってきた。
その後世V連の活動で、合宿を行なった(翌日の)「23万人の個展」というのを参考にして、
それが発想の元になって、やっぱりお互い知り合わないとダメだよなって話になったんですね。
大学から帰った沢畑さんが社会福祉に関わっている団体はないかと聞いて作った一覧表があったの。
じゃあ我々は(その団体に)1回も会ったことがないし、どんな人がどんな風にやっているかも知らなかったので、
じゃあ一つ一つ回って、「こういうお祭りをやりませんか」って呼びかけたんです。
相手はびっくりしますよね。障がい者がそんなことをって。ただ、障がい者のことだけじゃなくて、障がい者もボランティアになれるし、やっぱり積極的に一緒に活動することが大切なんだっていうことを説いて歩いたっていうかね、時々濱屋に、話しすぎだよなんて怒られたんだけど。それで同情してくれたのかもしれないんだけど。
あんなに一生懸命車いすの障がい者が言ってんだから、じゃあいいか、顔出してみましょうよって、準備会が始まった時にみんな参加してくれたんだと思うんです。
私は私で、いろんな会をまわることで、お年寄りや単なる障がい者の問題だけではなくて、自然の問題や子どもの問題や、地域の問題がいろいろあるんだということを知りまして。ただその問題を見ているだけじゃなくて、実際にそれを良くしようとしている人たちがこんなにいるんだっていうことに、感激して。
前から私はどういうわけか障がい者だけじゃ嫌だなって思っていたんですよ。
(沢畑)それは(世V連)の特徴っていうか、発想だよね。
障がい者だって一個の人間なんだから。
分けられて障がい者だけで活動するのイヤだなっていうのがあって。まわった中でこんなにいろんな事で実際に活動している方がいらっしゃるなら、じゃあ一緒に話し合えばきっといいものができるだろうと。
それでお祭りをやろうということになったんです。
濱屋なんかは家に泊まったりしてね。もうしょっちゅう寝泊まりしてましたけど。
やっぱり取り組んでいる人の姿を見ると、自分でも何かできるんじゃないかって。だから障がい者の問題だけじゃなくて、これは結局「街をつくる」ことなんだなって、そこで初めて気づいたんですよ。
ボランティア活動って、セツルメント活動で、施設に行って表沙汰になりいろいろ手伝うことじゃなくて、自分たちがやっぱり先頭になって住みよい社会をね、作っていくために、生きなきゃいけないんだよねと思ったの。
やっぱり障がい者っていうのは障がい者のことしか考えられなかった。
(自分も)大学の頃は自分のことで精一杯だったけど、雑居まつりを行うために歩いたことで、実際にいろんな問題に取り組んでいる人が世田谷区内にいたんだってことを初めて学んだから。
いろんな問題についてはだから詳しいよ。
説得するのに、話するだけじゃなくてどんな問題なんですかって聞きながらやったわけだからね。
で、そこまで持ってくるのに半年くらいかね。濱屋の車道でのパフォーマンスやら何かに耐えて。
だから(第一回実行委員会)に来た人のことは、沢畑さん自身も全部は知らなかったと思う。
(沢畑)そうそう、知らなかった。
私が知ってたのはね、まわったから。
こういう大切な人たちと出会えることが今、活動で一番必要なんだなって思って、それで第一回の実行委員会を進めていったんです。
最初はね、今も恒例でやってるけど自分たちの会の活動の説明。
だから、初めからその場だけが大切なんじゃなくて、祭りのその場だけが大切なんじゃなくて、
交流とか、人の話をしみじみ聞いてみるとか、そういうことによって初めてひとつのものが出来上がって、一時のものじゃなく終わるんだって思ったんだよね。
根付いていくんだなと。
(沢畑)誰かに任せたり声だけじゃなくて、自分のできることは何かということを自分に問いかけていくっていう。
(沢畑)役所の中にも我々がやろうとしていることに対して理解をしてくれる人がいたんだよな、その辺も大きかったと思うなぁ。
第一回の実行委員会を終えて話し合われたことは、自分たちにできることは限界があるから、それだったらちょっと行政に働きかけて、できないところだけ補ってもらおうと。
要求じゃなくて。障がい者が言ったから余計そう言ったんだろうけど、障がい者は要求だけだと思われてたんだよね。でも、できるところはみんなでやりますからできるところ以外のできないところを例えば舞台であるとか。
じゃりをね、あれ感激したよね。
どうにか(行政と)一緒にやるんだったらコントロールじゃなくて、話し合った中でお互いに妥協してその範囲内でできるかな。
それで、あーこれはできるぞってんで。その帰りまた実行委員会があって、その場でみんなに報告して。ああ、じゃぁやろうねって、みんな気運が上がってった。
(インタビュアー:「雑居」という名前の由来)
濱屋と話してて、(雑居時代って言ってたけどあれは俺知らなくて)「雑居がいいよ」って言い始めたのね。
(インタビュアー:雑居ビルだと思ってた)
俺は言ったのね、おまえ雑居っていいイメージねーよって。だけどまあしょうがねぇなぁ、
一緒にいろんな人たちが集まってやるんだから、「雑居」。
雑な人たちが集まって一緒に、何か始めるって言うんならいいんじゃないっていう話に結局なって、
じゃあ「雑居まつり」にしようって。
学校行ってた時代に、なんで俺1人だけ障がい者なんだろうと思って、なんで行かなくちゃならないんだろう、
特に長い休みの後なんかはまた改めて行くのが嫌になって。
そういった過程もあって社会の問題を自分なりに、心に、刻んできたのかなって思う。
だからどうしても、何かやらなきゃっていうような気持ちがその頃からあったんだよね。
肢体不自由父母の会、しげの母ちゃんね。あとさちこ、市瀬幸子のお母さんとか。参加している人たちのお母ちゃん連中が、(肢体不自由児者)父母の会。そこがまた雑居とか世V連とか運動やってる連中との人間関係が厚かったんだよね。それはね、地域の中で雑居まつりを起こすのと同じようにすごいよな。
何もないところから(会を起こした)。向こうの方が真剣味があったかもしれない。自らの子どもの問題だから一生懸命にならざるを得なかった。
自分たちの問題だけで解決できないっていうのを多分わかってるんだろうと思うんだよね。その中で実行委員会で話すんだから、やっぱり積極的に協力してやっていこうっていうことになっているんですよね。
だから、私たちはその間を仲介しただけで、何の役にも立ってないんだ実はね。区との関係とかいろんな基盤は作れたけど、それ以外は全部集まった人たちの力。
それと、自分たちの問題に活動していく信念ていうかね、いかにそれを良くしていきたいかっていうのが本当に自分の問題になっていると思う。生き方にもなっているんだと思うんだよね。
俺の体が不自由だけど、口だけは自由だ。
(インタビュアー:すごいなと思いました)
すごくない。いち障がい者です。
(インタビュアー:だからこそできたんですよね)
それで続いてるんだよね。
いち障がい者が目覚めて、
むっと起き出して動いてきたんだよね。